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龍国寺の成り立ち
平重盛公とその奥方、ご息女の千姫、福姫、平家一門の菩提を弔う為に建仁3(1203)年に建立されたお寺です。
平安時代 平家と九州の豪族・原田種直公の縁
平安時代 – 永暦元年、平重盛公は九州の築後・肥前を治めていた豪族である原田種直公に自身の娘(養女=重盛公の叔父・家盛の娘)を嫁がせました。
これにより平家と原田家にとても深い縁ができました。
平家と原田家は都で源氏と戦いますが、原田種直公は源氏に捉えられ、13年間鎌倉に幽閉されてしまいます。
平安時代末期 平家の敗北と平家一族の南下
原田種直公が鎌倉に幽閉されている13年間の間に、平家は戦に敗れ、平家一族は都から西へと追いやられます。
その際、平家は安徳天皇とともに太宰府に下りてきますが、再度壇ノ浦に上り、寿永4年(1185年)壇ノ浦の戦いで平家は滅びてしまいます。
同時期、重盛公の奥方(重盛公は既に病死)と千姫、福姫、その従者たちは親戚にあたる原田種直公を頼って糸島に下り、現在の糸島波呂地区の辺りに住みます。
源氏に終われ唐原へ
源氏に追われ、重盛公の奥方、千姫、福姫、その従者たちは更に山中に位置する唐原へ逃げますが、唐原での生活が1年ほどになる頃、ついに源氏の追手に見つかってしまった千姫・福姫は命を奪われてしまい、最愛の娘を失った重盛公の奥方は絶望から自刃して果てました。
[都見石の写真]
※都見石。都を恋しみ、ここから街を見下ろしていたとされる石
龍国寺の建立
建久7(1197)年、鎌倉での13年にも及ぶ幽閉を解かれた原田種直公が九州に帰り、怡土郡西側を領地として与えられます。
糸島に安住の地を得た種直公が建仁3(1203)年に平重盛公、千姫、福姫、一族の為に建てたのが小松山極楽寺であり、現在の龍国寺です。
ただし、そのあとのしばらくの間の記録については明確なものが残っていません。
室町時代 龍国寺の再興
1400年頃、足利義満公によって龍国寺が再興されたという記録があります。
足利氏による中国貿易で室町文化が花開きましたが、中国と地理的に近くにある博多・唐津・糸島は貿易における重要な意味がありました。
足利義満公は龍国寺を再興し、ここにお釈迦様の十大弟子の一人である阿難尊者(アナンソンジャ)の仏像を安置したとされています。
この仏像は今でも重要文化財としてお寺にお祀りしています。
[アナンソンジャ像の写真]
※阿難尊者は多聞第一と称せられる。
戦国時代、そして江戸時代
足利家没後の戦国時代では、糸島は大友氏、大内氏の領地争いが長く続きます。
一方、原田種直公の子孫である高祖城主・原田隆種(了栄)は、四男親種の菩提のために寺を再々興。
その際に号は萬歳山 龍国寺と改まりました(天正11年(1583年))。
天正14(1586)年、豊臣秀吉の九州遠征により秀吉に治められる形で糸島の領地争いは決着。
江戸時代になってからは糸島旧二丈町の半分ほどは大分県中津藩の飛び地となります。
その後も近隣の村同士の水争いの解決、享保の大飢饉での救済などを評され、龍国寺には中津藩主の御位牌もお祀りしています。
[中津藩主の御位牌の写真]
※中津藩主の御位牌
[龍国寺の歴史動画]
