龍国寺縁起
龍国寺を創建された原田種直公は平安時代末期に、太宰権少弐の位をもつこの地方の有力な領主で、平清盛公の長男、重盛公の娘婿となりました。
敗色濃い源平の戦いのさ中、重盛公の奥方、千姫、福姫、その家臣たちが都を追われ、種直公をたよって二丈満吉の唐原山中に隠れ住んでいましたが、源氏の追手によって殺害されてしまいます。
それを悲しんだ種直公はその後、奥方、千姫、福姫、平家一門の菩提を弔う為に建仁三年(一二〇三)波呂の庄に、重盛公を開基とし、法相宗の徹慶智玄大和尚を請じて御開山とし、小松山 極楽寺を創建しました。
その後、室町時代となり金閣寺を建てた三代将軍 足利義満公により至徳元年(一三八四)寺が再興され、木造阿難尊者像(県重要文化財)と水牛の香炉が寄進されました。
それから戦国時代の天正十一年(一五八二)、領主 原田隆種(了栄)公は、戦乱の中で割腹して果てた四男親種を弔う為、寺を再々興し、山号を遠祖にあたる 種直公の法名に因み萬歳山とし、寺号を龍国寺と改めました。
江戸時代になると、檀家制度が確立され、寺の檀信徒との縁も深くなり、檀家の中から住職となる人も現れます。
歴代住職には、村同士の水争いを治めた後、ふもとの百町歩の田に水が入る井手を、唐原山中に築いた普照鴻漸大和尚や、大飢饉で苦しむ人々の救済に尽力し、中津藩より十石の寺領を拝領した古瓶守口大和尚、「百姓和尚」の異名を持ち小僧さん等と龍国寺に鐵肝園を築いた鐵肝大宗大和尚等の記録が残っています。
龍国寺が地域に暮らす人々の葬祭を司りながら、その要となり、生じる困難を共にくぐりぬける、その先頭に立っていたことが窺い知れます。
この度、令和六年(二〇二四)に屋根が修復された本堂は、一八五年前 天保十年(一八三九)に寺より出火し、山門と経蔵のみを残して焼失しましたが、早くも翌年に寺檀一丸となり、再建された建物です。
龍国寺はこのような歴史を経て、創建より数えて今年で八二一年となりました。
※表書きの「龍國寺」は、現住職の父、沖縄で戦死した甘蔗大成和尚の揮毫によります。
令和六年七月吉日