歴史の古い龍国寺は残っていない記録も数多く、天正11年の住職を2世と数え、そこから現在までの住職の歴史が続いています。
しかしその間にも不明な時期は多、ここでは龍国寺を代表する歴代の住職を四名紹介します。
目次
九世住職 鴻漸和尚
享保初(1716)年頃、龍国寺の近くを流れる黒髪川の水利権を定めることで農民同士の争いを止めたのが九世住職の鴻漸和尚です。
農村における水利権の重要性
飲み水や生活用水以外にも農村では水田や田畑に供給する水や、農具を洗う用途で、いかに自分の村に水を引けるかが重要でした。
川からどの地域にどれだけの水を流すかを隣り合う村で争い合う水争いも起きるほどです。
時に水争いでは血の雨が降るような、大変な騒動になったこともあります。
深江・長石・波呂の水争い
糸島でも享保初(1716)年頃、深江・長石・波呂で黒髪山の裾を流れる黒髪川の水利権を巡って大きな水争いが起きました。
深江には大きな一貴山川が流れていますが、波呂・長石が頼りにしている黒髪川は水量が少なく、深江にも分けてしまうと波呂・長石では田が作れません。
鴻漸和尚の策
この集落同士の争いを放っておくと大きな禍根が残ると案じた龍国寺 九世住職 鴻漸和尚は、夜中に槌と鑿を携え、黒髪川上流に向かいます。
黒髪川上流に巨石を見つけた鴻漸和尚は、その石に「御陵園内」の四文字を刻みます。
翌朝、農夫たちを龍国寺に集めた鴻漸和尚は、
「黒髪川の上流に『御陵園内』と書かれた大石がある。これは原田種直公が、黒髪川は龍国寺や千福寺がある長石・波呂の寺領(管内)であることとともに、御陵つまり天皇のお墓であることを示している。一般人は何人たりとも手出しはできない」
と説いたことで、深江の農夫たちも「黒髪川は長石・波呂のものである」と納得します。
そしてこれを機に、黒髪川の流れを、より長石・波呂に流れるように大きな堤防を築き、今ではこの堤防は鴻漸井手と呼ばれています。
十二世住職 古瓶守口和尚
享保の大飢饉において、托鉢などで資金・食料を集め、10ヶ月に渡って延べ5,000人の人々に炊き出しを行い米やお粥を施したのが古瓶守口和尚です。
享保の大飢饉
当時の龍国寺の檀家数は100件前後で、例年であれば1年間でお亡くなりになる檀家さんは15名ほどでした。
西日本を襲った享保の大飢饉で、龍国寺の檀家さんは享保17年は56名、享保18年は88人、享保19年は13人。
享保の大飢饉がいかに多くの死者を生んだかが分かるかと思います。
10ヶ月間、延べ5,000人を救う
この時の龍国寺 十二世住職 古瓶守口和尚は托鉢などで資金や食料を集め、10ヶ月間に渡り、延べ5,000人に米やお粥の施しを行いました。
これが中津藩主から評され、寺領として10石(5反)をいただくこととなり、この御縁により当時の中津藩主の御位牌を今でも龍国寺にお祀りしています。
二十二世住職 鉄肝和尚
江戸時代(1800年代)、龍国寺の象徴でもある鉄肝園を作ったのが二十二世住職の鉄肝和尚です。
農家の孝太郎と庄屋の孫四郎
龍国寺がある波呂の隣村である松国村の農家・田中家の孝太郎と同じ村の庄屋・松藤家の孫四郎は大親友で30歳になっても兄弟のような親交を続けていました。
ところが孫四郎が神在の大庄屋である納富家(龍国寺の檀家でもあります)の養子に迎えられ士分の地位になってしまいました。
こうなると農家の息子である孝太郎は親友の孫四郎と言葉を交わすこともできませんでした。
農民孝太郎 僧の道へ
ある日、一人で日暮れ近くまで農作業を行っていた孝太郎の心に、夕刻の龍国寺の鐘の音が染み入ります。
そこで孝太郎は
「龍国寺に弟子入りすれば士分となってしまった親友の孫四郎とも僧として対等に話せる」
と思いつき、龍国寺に弟子入りを決意します。
僧となる為に猛勉強を積んだ孝太郎はついに鉄肝和尚として龍国寺の住職を継ぐことになります。
鉄肝園の由来
親友である孫四郎がいる納富家の庭は千利休が設計したと言われています。
それを見た負けず嫌いの鉄肝和尚は
「檀家の家に千利休の庭があってお寺に庭がないのは残念だ」
として自ら造り上げたのが、つつじが美しい龍国寺の象徴・鉄肝園です。
第二十五世住職 断泥卍鏡和尚
断泥卍鏡和尚が住職を務める時代に、龍国寺が専門僧堂として認められました。
住職の資格を得る為の研修機関 専門僧堂
日本の禅宗において僧侶が住職の資格を得るために一定期間修行する研修機関のことを専門僧堂もしくは専門道場と呼びます。
本山である永平寺以外にも、曹洞宗が専門僧堂として認めるお寺が全国各地にあります。
断泥卍鏡和尚が第二十五世住職を務めている時期に龍国寺が専門僧堂に選ばれ、そのお役目を果たしました。
断泥卍鏡和尚は長州藩士の家に生まれ、曹洞宗でも相当に活躍したとされています。
龍国寺の玄関の「関」の字の衝立
断泥卍鏡和尚の在家の弟子である杉孫七郎は明治天皇の皇后である昭憲皇太后の教育係を務め、杉孫七郎が断泥卍鏡和尚の為に書いた「関」の字の衝立は今でも龍国寺の玄関に座しています。
第二十八・三十世住職 甘蔗大吽和尚
元受刑者を寺に引きとり、家族同様に暮らし、彼らの自立更生に尽力したのが甘蔗大吽和尚です。
糟屋で生まれ、糸島へ
1883年、当時の糟屋郡生まれの大吽和尚は13歳で明光寺の小僧になり、その後24歳で糸島に移り住み長音寺(志摩松隈)の婿養子として長音寺を継ぎます。
大正時代、仏弟子として社会奉仕に努める大吽和尚は福岡刑務所の布教師でもありました。
免囚の受け入れ
彼は免囚(保護観察中の受刑者)を保護司として受け入れ、自身が経営していた梨園で働かせ、長音寺で家族同様一緒に暮らしました。
当時免囚に対しての周囲の住民の目は厳しく反対もありましたが、家族の協力もあり免囚の保護を継続するにつれ、その熱意が伝わり、周囲の理解も得られたと言います。
間接保護は約600人、寺での引き取りは60人に上り、糸島保護司会の祖でもあります。
大切にしている想い
このように、(龍国寺に限らず)お寺の役割は地域の歴史との共存・共生と考えています。
我々は歴代の住職方やお檀家さん一軒一軒の歴史をお預かりし、皆様が大切にしてきた想いに適う未来を、これからも残していきたいと考えてます。